facebookについて、最近考えていること。

お互いに(おおむね)実名であるという制約のあるSNSには、いろんなメリットが(当然、同じくらいに様々な副作用も)あるように思う。

1,ウソをつかなくなる(ウソをつく回数が減る)。
実は、僕には、これがすごく大きい。僕は、元々、ものすごく見栄っ張りだ。だから、自分が格好よく見えるようなウソを、しょっちゅうついてしまう。特に、知らない人、初めて会う人と会うときには、たいてい、そうだ。どうせ、相手は自分のことを知らないと思っているし、それに、どうせ会うのはその時だけ、その場限りの関係なんだから、ウソをついたってバレる気遣いもない。

どうせ会うのはその時だけなんだから見栄をはっても仕方がない、という風に考えてもいいはずなんだけれど、不思議なことに、そうは考えない。たぶん、元々、見栄を張るのが大好きなんだろうと思う。

これは結構困ったことで、というのは、あったときには、その場限りの人間関係だと思っていても、予想に反してその後も関係が続いてしまうことは、これは結構あることだし、そうなると、一つでも下手なウソをついていると、それを隠すために別のウソをつかなくちゃいけなくなって、結構、神経を使うことになる。

厄介なことに、僕は、いろんな都合のせいで、結構引越しが多い方で、だから中学高校の時の友人と大学の友人には殆ど重なりがないし、大学の時の友人と社会人になってからの友人も、社会人になってはじめの頃の友人とそれ以降の友人たちも、もちろん、それ以前の、小学校時代の友人と中学の友人も、それぞれ、ほぼ完全に別のグループだ。

意図してそうしたわけではないのだけれど、結果として、ほぼ3年毎に、人間関係をリセットして、古い社会を出て、新しい社会の中に入っていくことを繰り返してきた。

だから、自分の過去の大部分を知っている友人というのはほとんどいない。こうなると、生来の見栄っ張りは、つい、どの友人にも小さなウソをついてしまう。

大人になって、ある程度分別ができてきて、そういう子供じみたウソは段々つかなくなってきたけれど、それでも、時々、つい見栄っ張りなウソをついてしまうことはあって、だから、結構困っている。

この悪癖が、facebookを使い始めてから、なくなってきた。

たぶん、理由は簡単だ。 facebookの友達の中には、小学校の時の友人から、つい最近の友人までズラリと並んでいる。こうなると、facebook上では、僕の過去についてどのようなウソをついても、友人の誰かにはバレてしまうことになる。こいつが、見栄っ張りにとって、強い抑止力になっているのだ。

一旦こうなってくると、リアルでもウソをつきにくくなる。

これは、気が楽だ。嘘をつけないのは窮屈だが、ウソがバレる心配をしなくてもいいというのはラクだ。 

つづく。